Pashat's Book Diary

いままで全然本を読んでこなかった貧乏アラフォーがブックオフで100円で買える本を読み続けるブログ

「友だち幻想」菅野仁

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どうでもいい話ですが、ブログとかSNSとか自分の一人称何にするか悩みません?

「僕」「俺」「私」「オレ」「わたし」「ウチ」「ワイ」「吾輩」「某」、、、

この一人称設定により世界観がかなり左右されますよね。「俺」が楽な気もしますが、文章が圧倒的に粗雑になりそうな予感がしたので、私は無難に「私」で行こうと決めました。こうゆうしょうもないところでめちゃくちゃ悩むんですよね私。。。

 

「友だち」、私の人生における友達を振り返ってみる

幼稚園時代恐らくはじめての友達と言えたであろう近所の幼馴染、小学校時代少年野球チームのメンバー達、中学時代さらに新しい友達ができ、高校時代放課後バイトで仲良くなり夜通し遊んでいた友達。社会人になり、はじめての会社でお世話になった、先輩上司たち。当時かなり長い時間を共有しあい、「うわ〜俺たち青春してる〜今!」なんて思える体験を何度かしてきたものの、今となっては彼らとのつきあいは全く無い。

連絡を取る間隔が次第に長くなっていき、自然に会わなくなっていった友達がほとんど。私のほうから距離を置き離れていった人もいれば、逆に私から離れたいと思った人も中にはいただろう。思い出したくない苦い思い出だって少なからずある。

この本を読みながら、今までの人生、何年も会っていない友人(だった)達のことを思い出していた。私が想像する彼らの顔や姿は、最後に会った記憶の姿から時間が止まっている。自分が彼らのことを忘れていくように、彼らも自分の顔をふと思い出すなんてことはないだろう。みんな自分の「今」を生きているはずだ。私は同窓会のような催しも断ってきた人間なので、その連絡すらもう来ることがないし、普通に生きている限り、彼らとは死ぬまで会うことがない、と言っても過言ではないだろう。

 

こんな話をすると、どことなくネガティブで寂しい人生の雰囲気が漂ってしまうかもしれないが、、、

「それでも良いんだ」という気づきがあった。これは結構すごいことで、思考が一気に柔らかくなった気がしたよ。開き直ったわけじゃなくキチンと納得。

親しさか、敵対かの二者択一ではなく、「態度保留」という考え方。

当時を振り返ると、学校や会社のような狭い社会の人間関係の中で、このような視点で物事を考えることは難しかったかも知れない。実際悩んだり失敗したりを繰り返して、それ相応のストレスは感じていたと思う。白黒じゃない「態度保留」。そんな選択肢は頭の中には無かった。

 

誰だって誰かに認められたいって思ってる

例えばこんなブログでも誰かに見てもらい反応してもらったりするだけでめちゃくちゃ嬉しいじゃない? どんなに些細なことでもポジティブに他者から自分を認めてもらうということは、生きていく上での原動力になる。1コメントもらえるだけで一週間は幸せな気持ちで過ごせます、頑張ります!みたいな感じ。承認欲求は誰もが持つ自然な感情だ。

とはいえ欲しがり過ぎが表に出すぎると、それはそれで他者との距離感に歪みが生じる。自分が思っている以上に他人は自分に無関心だ。いつも自分が誰かに気にされているなんてことはまずないのだ。でも承認を求めるあまり結構痛い行動をしちゃった経験の一つや二つ誰にもでもあるよね? そこらへんは失敗して学んでいくしかない。

大体の人は人生を生きていく中で、誰かから何かをもらい、誰かから何かを奪っている。逆に自分は「誰かに与えている」ってことは何かあるだろうか、、、?

「自分のため」にがいつのまにか「自分以外の誰かのために」なっていたとしたらそれは本当に素晴らしいことだ。

 

戻れはしない過去のことをいつまでも悩んでも仕方ないけれど、人間関係において過去に起きたこと、感じたことへの気持ちの整理や納得は、何歳になってからでも遅くはない。今の自分が成長するためにも。