Pashat's Book Diary

いままで全然本を読んでこなかった貧乏アラフォーがブックオフで100円で買える本を読み続けるブログ

「友だち幻想」菅野仁

f:id:pashat:20200415010209j:plain

どうでもいい話ですが、ブログとかSNSとか自分の一人称何にするか悩みません?

「僕」「俺」「私」「オレ」「わたし」「ウチ」「ワイ」「吾輩」「某」、、、

この一人称設定により世界観がかなり左右されますよね。「俺」が楽な気もしますが、文章が圧倒的に粗雑になりそうな予感がしたので、私は無難に「私」で行こうと決めました。こうゆうしょうもないところでめちゃくちゃ悩むんですよね私。。。

 

「友だち」、私の人生における友達を振り返ってみる

幼稚園時代恐らくはじめての友達と言えたであろう近所の幼馴染、小学校時代少年野球チームのメンバー達、中学時代さらに新しい友達ができ、高校時代放課後バイトで仲良くなり夜通し遊んでいた友達。社会人になり、はじめての会社でお世話になった、先輩上司たち。当時かなり長い時間を共有しあい、「うわ〜俺たち青春してる〜今!」なんて思える体験を何度かしてきたものの、今となっては彼らとのつきあいは全く無い。

連絡を取る間隔が次第に長くなっていき、自然に会わなくなっていった友達がほとんど。私のほうから距離を置き離れていった人もいれば、逆に私から離れたいと思った人も中にはいただろう。思い出したくない苦い思い出だって少なからずある。

この本を読みながら、今までの人生、何年も会っていない友人(だった)達のことを思い出していた。私が想像する彼らの顔や姿は、最後に会った記憶の姿から時間が止まっている。自分が彼らのことを忘れていくように、彼らも自分の顔をふと思い出すなんてことはないだろう。みんな自分の「今」を生きているはずだ。私は同窓会のような催しも断ってきた人間なので、その連絡すらもう来ることがないし、普通に生きている限り、彼らとは死ぬまで会うことがない、と言っても過言ではないだろう。

 

こんな話をすると、どことなくネガティブで寂しい人生の雰囲気が漂ってしまうかもしれないが、、、

「それでも良いんだ」という気づきがあった。これは結構すごいことで、思考が一気に柔らかくなった気がしたよ。開き直ったわけじゃなくキチンと納得。

親しさか、敵対かの二者択一ではなく、「態度保留」という考え方。

当時を振り返ると、学校や会社のような狭い社会の人間関係の中で、このような視点で物事を考えることは難しかったかも知れない。実際悩んだり失敗したりを繰り返して、それ相応のストレスは感じていたと思う。白黒じゃない「態度保留」。そんな選択肢は頭の中には無かった。

 

誰だって誰かに認められたいって思ってる

例えばこんなブログでも誰かに見てもらい反応してもらったりするだけでめちゃくちゃ嬉しいじゃない? どんなに些細なことでもポジティブに他者から自分を認めてもらうということは、生きていく上での原動力になる。1コメントもらえるだけで一週間は幸せな気持ちで過ごせます、頑張ります!みたいな感じ。承認欲求は誰もが持つ自然な感情だ。

とはいえ欲しがり過ぎが表に出すぎると、それはそれで他者との距離感に歪みが生じる。自分が思っている以上に他人は自分に無関心だ。いつも自分が誰かに気にされているなんてことはまずないのだ。でも承認を求めるあまり結構痛い行動をしちゃった経験の一つや二つ誰にもでもあるよね? そこらへんは失敗して学んでいくしかない。

大体の人は人生を生きていく中で、誰かから何かをもらい、誰かから何かを奪っている。逆に自分は「誰かに与えている」ってことは何かあるだろうか、、、?

「自分のため」にがいつのまにか「自分以外の誰かのために」なっていたとしたらそれは本当に素晴らしいことだ。

 

戻れはしない過去のことをいつまでも悩んでも仕方ないけれど、人間関係において過去に起きたこと、感じたことへの気持ちの整理や納得は、何歳になってからでも遅くはない。今の自分が成長するためにも。

 

「バカの壁」養老孟司

f:id:pashat:20200325115925j:plain

「知っている」ってなんなんだと思う?

前に読んだ本「人間にとって成熟とは何か(曽野綾子)」にもちらっと出てきたけど、「本当の貧しさって今日食べる食べ物がないこと」を思い出して、ああこのこともかなと思った。私たちが住むの世界の貧乏感って、そこまでのことではない人がほとんどだ。あれしたい!これしたい!でもお金と時間に余裕が無いから、、、は?何言ってんの自分。って感じである。これほどに人は生まれた国や境遇によって、幸せや貧乏の感覚が全然違う。「そんなこと当たり前じゃん知ってるよ」って思うでしょ?

それがバカの壁だ。

自分が知っていると思っていること、本当にそれがわかっているのかどうか、いま一度考えるきっかけとなったこの本。知識としてただ知っているだけじゃ、本当にそのことを解っているということには全然ならない。一通りこの本を読んで印象に残った部分を要約するとこんな感じかな、と。

 

妻との間にも「バカの壁」は存在していた

身近な自分ごとだと、妻と子育てに関することで、意見の言い合いになったりすることがたまにある。毎日家メインで主婦としての仕事(子育ても仕事に含める)をしている妻、週のほとんどを会社メインで過ごしている私だと、お互いやっている仕事内容があまりに違いすぎて、実務&メンタルの部分を比べても結構なギャップが生じる。

夫側の自分としてようやく理解した部分は、「妻と比べると子育てに関するリアルな経験値が圧倒的に少ない」ということ。

私の意見が、いかに毎日の子育て現場を理解せず、浅はかで通俗的な意見だったということがわかった。完全に現場を知らない人の意見なんだよね、自分の意見は。なんとなく常識なんじゃなないかと思って頭にある知識を並べているだけ。よく仕事とかでも現場を知らないのに余計で偉そうな意見をぶちまけて踏ん反り返ってる管理職の人とかいるじゃないですか、あんな感じなんじゃないかと。

 

自戒の意味も込めて、妻がめんどいと思ってる仕事は何か?妻の精神的余裕な時間を捻出するにはどうしたらいいのか?を考えるようにした。例えば「毎日の洗い物は家に帰ったあと全て自分がやるから、一日中溜まった食器は流しにおいておいてくれ」だけでもは結構な評価をもらえた。

イクメンとかっていう子育てする旦那を持ち上げるワード、大体は虚構だぞあれ。自分で言ってたらほんとどうかと思う。家族が本心から認めてくれないかぎりイクメンなんて自分では到底言えないぞ。日中仕事で家にいなくて子供と接する機会が少ないぶん、まずは妻の助けになることは何かを考えることを忘れてはいけない。

 

個性の話

興味深かった個性の話。

個性を伸ばせととよく言う日本の教育現場。でも同じ人なんてこの世には2人といない、つまり個性はそもそも人それぞれ全く違う。最初から圧倒的にみんなが違うものを、さらに伸ばそうなんて考える必要があったら、そんなことよりも重要なのは個性はみんな違って当然ということを理解した上で、家族や友達や他人の気持ちを考えれることができる教育をしたほうがいいんだろう。このあたりの個性の話はすごくためになった。

また、天才なんていう表現は人間が勝手に決めた1つの尺に過ぎない。なので生まれてきた人達は生まれながらにみな異なる天才だ(?)。誰もが気づいてくれる社会じゃないかも知れないけど。なんとなく言いたいことわかるだろうか。

 

バカの壁」とても有名本ですが今更読んで読んでも面白かったです。

ブックオフ新書コーナーに必ずあります。

あなたの大事な人は誰ですか?「ワンダと巨像」

f:id:pashat:20200321033627j:plain

あなたの大事な人は誰ですか。

そう訊かれると誰を思い描きますか?

そして、その人のために命を賭けることができますか?

ワンダと巨像」のオリジナルは2005年にPS2にて発売された。2018年、13年の時を経てPS4でリメイクされた。さらに先日PSplusにて本ゲームが配信されたのでまさに15年ぶりに再プレイしてみたわけだ。懐かしい。。

 

やっぱり凄いわこのゲーム。

あまりにも美しく、切なく、とにかく胸を抉られるゲーム。このゲームをプレイしたかしないかによって今後の人生における感受性の豊かさと人や動物への思いやりが多分に左右されるゲーム。全人類がプレイすべきって言っても決して大袈裟じゃない。未プレイの人は即プレイしておけ。そして滝のように涙を流せ。ワイパーを用意しておけ。

 

命をかけることが出来るほどの大事なものを自分はもっているか

恋人や家族のことを想わずにはいられないシンプルかつ深い物語。自分を犠牲にしてまで命を賭けれるものってある?中々ないよね、、ただそういう大事なものって何なのかを考えずにはいられない。それがあったとしてもなかったとしても考えるきっかけにはなるかと思う。大事なものを今よりももっと大切に思うことができる。

 

最後の一撃は、せつない。

このゲームのキャッチコピー。ゲーム史上屈指の名コピーだと思う。何が「せつない」かはプレイしてわかると思う。結末は自分で見て感じてくれ。


ところで先日、香川県にて「ネット・ゲーム依存症対策条例」が可決されたけど、ゲームは1時間てねぇ、、、。恐らくゲームで感動体験をしたことない人たちが話し合って決めた法案だろうけど、私としてはゲームも読書も音楽も映画なんかも全部同じで、そこで得られた感動をどう自分の中で育んでいけるかだと思うぞ。ゲームだけ特別にネガティブに捉えるんじゃない。自分たちの価値観に合わないことを認めないことは簡単だ。いい所をもっと探そう、発見しよう。

 

15年前は結婚する前の妻と一緒にプレイした。

そしてもう少し息子が大きくなったらこのゲームを勧めるよ。

「人間にとって成熟とは何か」曽野綾子

f:id:pashat:20200314104404j:plain

成熟しきった人間なんていない。みんなどこかは腐ってるしそれで良い。

 

本当に心の底から平和を願っているか

もちろん世の中の理不尽な出来事がなくなって、誰もが平等に自由に幸せに生きてゆければそれが良いと思う。って心の底から思えればそれはそれで良いのだが、本心はというとそれはちょっと違うかなって思う部分もある。

物事を白黒ハッキリつけることなんて無理というか、どっちつかずのグレーだからこそワクワクもするというか。理想郷やユートピアって、ある一線越えると気持ち悪いものでしかないじゃない?

「悪」には「善」にない面白さ、魅力や刺激がいっぱいある。「悪」が世の中から消え去ればこの世はとても退屈だ、と思いつつ今日も平和に残酷な映画やドラマ、ゲーム、漫画などで「悪」の欲求を満たしている。

 

年齢って人に言いたくないのはななぜだろう

わかる。私もSNSなどで年齢を公表できないタイプ。

たぶん歳をとってる自分に自信がなく精神的にも肉体的にも今の自分を肯定することができないのだろう。自分を肯定できる人はこんなつまらないこと気になんてしないだろう。

 

祈りって

私は普段あまり体調を崩すことが少ないせいか、ちょっとでも風邪をひこうものならかなり気持ちが萎えてしまう。そんなときでさえも神さまどうか早く体調が良くなりますように、などと祈ってしまうぐらい結構神頼みを頻繁にしてるかもしれない。

で、その「神」って何なのだろう。私は何か特別な宗教に属しているわけでもなく、信じる神なんてものはない。でもたまに出てくるこの「神」とは一体何なんだろう。それは自分にとって都合のいいものであることは間違いないけれど、何かにすがりたくなるとき、祈りたくなるとき、つい謎の神さまに対して祈ってしまう。

ただ、どんなときであろうと祈ることは何もおかしくなんてない。家族や友達に何かあれば祈るし、テレビで見るニュースの結末がこれ以上悪くならないよう祈ったりもする。「神」が何であれろうが祈りは希望に変わる。因みに私がピンチのときに想像する「神」は白い袈裟を着た白髪のヒゲ爺さん、ほぼスーパーゼウスみたいな感じだ。

 

「人間にとっての成熟」って結局なんなの

大体のことを謙虚で誠実な姿勢を持ってのぞめば人として成熟していくのだろうか?

でも、そこは人間なので絵に描いたような聖人なんていないはず。年齢を重ねても心が成熟するとは限らない。言葉で言ってることと、心で思っていることは全然違ってて矛盾だらけ。そんな感じの適当さもあるのが人間らしさなのではないかと思う。

歳を取ってはいるが成熟していない人間がモノ申すと「老害」と言われることがあるが、自分が歳を取ったとき、若者が私の何かしらの意見や話を聞いて「なるほどなぁ」ぐらいの気持ちのリアクションがもし得られるのであれば、多少は人間として成熟したのかなぁなんて思えるのかもしれない。


自分を見失いがちな自分には結構ささる内容が多かったです。

ブックオフにて100円で売ってます。